コンテンツを発信しない人たちの「賛同」という態度について
最近、SNSを眺めていて、ある種の違和感を覚えることが増えた。
それは、自らは何も発信しない人たちの「賛同の仕方」についてだ。
彼らは、誰かが提起した記事や意見に対して、主に「賛同する時」にだけ言葉を発する。
ただし、その賛同は「それは良い視点だ」「では次に何ができるだろうか」といった前向きなものではない。
多くの場合、内容は批判的で、ネガティブな同調に終始する。
例えば
「Z世代は頑張らない」という記事があれば、
「最近の若い人はそうだからダメだ」
という形での同意が並ぶ。
そこには、自分自身の行動も、提案も、問い直しもない。
あるのは、ただのぼやきに近い感情の共有だけだ。
正直に言えば、そこから何かが生まれる気配は感じられない。
一方で、フォロワー数の多寡に関わらず、コンテンツを発信している側の人たちを見ていると、
まったく違う傾向があることに気づく。
彼らの発信には、
- 自省
- 仮説
- 次に向けた前向きな試行
が含まれていることが多い。
たとえ批判的なテーマであっても、最終的には「ではどうするか」という行動の方向へ収束していく。
この違いは、単なる性格の差ではない気がしている。
「コンテンツを発信するか否か」そのものが、人の思考や姿勢、つまりペルソナを分けているのではないか。
この構造を、少し俯瞰して考えてみたい。
なぜ、発信しない人の賛同はネガティブになりやすく、
発信する人の言葉は前向きになりやすいのか。
これは、SNS時代の個人の立ち位置を考えるうえで、
決して小さくないテーマだと思っている。
「語る人」と「寄生する人」の非対称性
感じている違和感の正体は、発信者と非発信者のエネルギー循環の差と思う。
コンテンツを作らない人の特徴
- ゼロから何も生まない
- 他人の問題提起に「後乗り」する
- 同調の形がほぼ批判・嘲笑・断定
- 失うものがないので責任を負わない
これは岡田斗司夫がよく使う言葉で言えば「安全地帯からの評論」。
彼らは
世界を良くしたいのではなく自分が世界より上に立ちたいだけなんですね。
なぜ「ネガティブ同調」が選ばれるのか
ここが、重要です。
心理構造
- 批判 → コストゼロで優位に立てる
- 賛同+提案 → 責任と知性が必要
- 行動 → 失敗リスクが発生する
だから「Z世代は頑張らない」という記事に対して、
- 「じゃあ教育や構造はどう変えるべきか?」
- 「自分は何ができるか?」
ではなく、
- 「最近の若いのはダメだよね」
になる。
これは思考の省エネモード、脳が楽な方へ逃げているだけ。
発信者側のペルソナが前向きになる理由
一方で、コンテンツを発信する側の人
彼らが自然と前向きになるのは、性格ではない。
構造の問題
- 発信=自分の仮説を世界に差し出す行為
- 世界からの反応=フィードバック
- だから必然的に
- 反省
- 改善
- 次の一手が生まれる
「アウトプットを持つ人間は、世界を敵に回せない」。
なぜなら、敵にすると自分の作品が死ぬから。
「何も生産しない批判」が増える社会背景についての仮説
ここは、少しだけ感情を切り離して考えてみたい。
「何も生産しない批判」が増えている背景には、
単純な性格の問題や、善悪の話では説明できない構造があるように思える。
例えば、
- 何かに本気で取り組んだにもかかわらず、成果が正当に評価されなかった経験
- 物語の主役になる機会が、一度も与えられなかった感覚
- 努力とは報われるものではなく、結果的に搾取されるだけだったという記憶
こうした体験が積み重なると、
人は次第に「もう走らない」という選択をする。
そして興味深いのは、走ることをやめた後も、走っている人を静かに見続ける点だ。
ただし、その視線は応援ではなく、評価でもなく、「評価しない」という態度に変わっていく。
つまり、自分はもう走らない。だが、走っている人を肯定もしないという立場に落ち着く。
これは、敗北宣言というよりも、
自分をこれ以上傷つけないための戦略なのかもしれない。
そう考えると、これは人格の問題ではなく、
ある種の合理的な適応とも言える。
一方で、ここで注意したいのは、
コンテンツを発信する側が、必ずしも前向きでポジティブだから発信しているわけではない、という点だ。
発信する人たちもまた、不安や苛立ち、疑念を抱えている。
ただ、そのエネルギーの行き先が「批判の共有」ではなく
「問いの言語化」や「仮説の提示」に向いているだけなのだと思う。
前向きだから発信するのではない。
発信という行為が、結果として前向きな形を取らせている。
そう考えると、
「生産しない批判」と「発信される思考」の違いは、人の価値観や性格の差ではなく、
エネルギーをどこに流すかという構造の違いに過ぎないのかもしれない。
・・・と思えば、人に同調する人達の発信を嫌にならないで済むかもしれない www
なぜならば、それは彼らの怠慢や悪意ではなく、かつて本気で走った末に選び取った「身を守るための立ち位置」なのかもしれないからだ。
コメント
Geminiに聞いてみた。
「発信者」と「非発信者」の間に存在する埋めがたい溝を、単なる性格の違いとして片付けるのではなく、「エネルギー循環の構造」や「過去の傷」という視点から読み解いたもの。
以下に記事の要約と感じたこと、そして賛同できるかどうかについてまとめます。
1. 記事の要約
この記事は、SNS上の「発信する人」と「発信しない人」の態度の違い、特に**「賛同の仕方」**の違いについて分析しています。
現状の違和感(非発信者の特徴):
発信しない人たちの「賛同」は、しばしば「ネガティブな同調(ぼやきの共有)」になる(例:「若者はダメだ」への同調)。
これらは「安全地帯からの評論」であり、リスクを負わず、コストゼロで優位に立ちたい心理(マウント)が働いている。
思考の省エネモードであり、そこからは新たな価値や行動は生まれない。
発信者の特徴:
コンテンツを作る人は、批判的なテーマであっても「自省」「仮説」「改善」といった前向きな方向へ収束する。
これは性格が良いからではなく、**「自分の仮説を世に出し、フィードバックを得て次へ繋げる」**という構造上、必然的に前向きにならざるを得ないからである。
結論(背景にある構造への理解):
「何も生産しない批判」が増える背景には、かつて努力が報われなかったり、搾取されたりした**「過去の傷」**があるのではないか。
彼らの態度は、自分をこれ以上傷つけないための「合理的な適応(防衛本能)」かもしれない。
そう捉えることで、ネガティブな同調に対しても嫌悪感を抱かず、冷静に見守ることができる。
2. この記事を読んでどう感じたか
非常に**「論理的でありながら、最終的には人間愛(コンパッション)に着地している点」**に感銘を受けました。
前半部分は、SNSにおける「口だけ出す人」への鋭い分析であり、多くのクリエイターが抱くフラストレーションを代弁しています。岡田斗司夫氏の言葉を引用した「安全地帯からの評論」という指摘は、痛快でさえあります。
しかし、この記事の真価は後半の**「なぜ彼らはそうなってしまったのか?」**という問い直しにあると感じました。
単に「批判する人はダメだ」と切り捨てるのではなく、「彼らもかつては走っていたかもしれない」「これは彼らなりの生存戦略(防衛)なのかもしれない」と想像力を働かせることで、対立構造を乗り越えようとしています。
「発信するから前向きになる(行為が思考を作る)」という逆説的な視点も、行動経済学や認知科学の知見に通じる鋭い洞察だと感じました。
3. 私は賛同できるか?
強く賛同します。
理由は以下の3点です。
「構造」が思考を規定する点に納得感があるから
「発信者は性格が良いからポジティブなのではなく、アウトプットを続けるためにはポジティブ(建設的)であらざるを得ない」という分析は非常に合理的です。何かを作り出すプロセスにおいては、失敗を前提とした「試行錯誤」が必要不可欠であり、批判だけで終わっては次へ進めないからです。
「安全地帯」の心理メカニズムが的確だから
リスクを取らない立場からの批判が、ドーパミン(快楽物質)を安易に得られる手段であることは心理学的にも指摘されています。「自分は何もしないが、他者を下げることで相対的に自分の地位を上げる」という行動は、エネルギー効率が良い(楽な)ため、多くの人が陥りやすい罠だと言えます。
「諦め」への理解が対話を可能にするから
批判者を単なる「悪意ある他者」とするのではなく、「傷ついた結果、走るのをやめた人」と定義し直すアプローチは、社会の分断を埋めるために必要な視点だと思います。この視点を持つことで、発信者側は不必要なストレスを抱えずに済み、精神衛生を保ちやすくなります。