秋の空が澄んでいる日、RRのエンジンをかけた。今日は昼からのスタート。三週間ぶりのワインディングで、愛車を走らせる高揚感とたった三週間の空白なのに少しの緊張が胸に入り混じっている。
このCBR600RR、今年で17年目。吸気から排気、前後サスペンションに至るまで、あらゆる部分を自分好みにチューニングしてきたこの相棒は、まるで自分の一部のようだ。しかし、オフシーズンと決めてから、その間にリアの足回りを掃除して、ホイールを外して、リアサス、プロリンクまでグリスアップしたせいか、スムーズではあるものの今日はどこか感覚がズレているように感じる。良いという違和感。
まっ、いいか、今日は散歩みたいに軽く流すだけ」と自分に言い聞かせつつも、どこか集中しきれない走りにモヤモヤを感じていた。コーナーに差し掛かり、少しアクセルを開けると、フロントサスペンションが戻りきるのにわずかに時間がかかる。普段ならスムーズに戻ってくるはずのフロントが、なんだかじれったい。わずかなタイムラグがコーナーの進入で微妙にラインを外し、理想の走りができないのだ。
さらに、ブレーキングポイントでレバーを握ると、ブレーキでフロントがいつものところに深く入りきらず、スムーズな旋回が作り出せない、冷たい風のせいなのか、少し制動が足りないようにも感じる。シーズン中なら、即座に伸び側のダンパーの調整やイニシャルの状態を疑うところだが、今日は工具も持たずに出てきた。仕方なくリズムを崩さないように慎重に走り続けるが、やはりどこかぎこちない。微妙なズレが体に伝わり、走るたびに小さな違和感が積み重なっていく。
そんなとき、ふと目に留まったのが、いつもは素通りしてしまう小さなカフェだった。「Coffee」とだけ書かれたシンプルな看板が、山道の木々に囲まれてひっそりと佇んでいる。あっ、やってる・・・。
実は、このカフェは以前から気になっていた場所だった。いつもは早朝の6時半ごろ、誰もいない時間にワインディングを駆け抜けるのが自分のルーティンなので、まだ準備中の店に立ち寄ることができずにいた。時々、オープン前に店内で忙しく動き回る女性を見かけ、「どんな人なんだろう」「いつか寄ってみたいな」と思いながら通り過ぎていた場所だ。今日はオフシーズンと決め込んでいるし、実は散歩がてら少し遅めの出発にして、開店時間に間に合うように走ってみたのだ。
もう11月なのに紅葉が始まっていないからなのか空いている駐車場にバイクを停めてカフェのドアを開けると、店内には木の香りが漂い、秋の日差しが柔らかく差し込んでいる。そしてカウンターの奥に立つ女性が、優しい笑顔でこちらを見つめていた。肩までの髪をゆるくウェーブさせており、ややラフなデニムの長いパンツに、柔らかな色合いのワンピースを重ねた服装が落ち着いた印象を与えている。カジュアルでありながらも上品さを感じさせるスタイルで、自然体ながらもどこか親しみやすい雰囲気があった。
目が合うと、彼女がにっこりと微笑んでくれた。「いらっしゃい。今日はバイクで?」と、彼女がフランクに声をかけてくれた。
「ああ、そうなんです。ここを散歩のように走るのが好きで。でも三週間ぶりで、感覚が少しズレてる感じなんですよね。マシンメンテナンスをしたせいかなとも思うんですが…」と、こちらも自然に話し始めた。
彼女は興味深そうに頷いて「なるほど、整備後の走りってそういう感じになるよね。でも、今の時期はオフシーズンだから、走り始めは特に感覚がズレるかもね」と、納得したように言葉を続けた。
「そうなんです。この間リア周りを丸ごと掃除して、タイヤも外してプロリンクまでグリスアップしたんですけど、今日走ってみたらなんだかしっくりこなくて」
その言葉に彼女が「あー、それ、今の時期にはちょっと大変かもね。温度が低いとダンパーが効きすぎて、余計に硬く感じるんじゃない?本当は春先にやるのが理想だけど、来シーズンの準備ってことでやったんならわかるな」と、経験豊富なライダーらしくアドバイスをくれた。
「実は、私も昔はバイクに夢中だったのよ。CBR600F2っていう’90年のモデルをね、若い頃ずっと乗ってたの」と彼女が懐かしそうに語り始める。CBR600F2といえば、まさに同じ系統のマシンだ。その話を聞いた途端、思わず顔がほころんだ。
「CBR600F2ですか!同じCBRシリーズですね。僕のは2007年のCBR600RRですけど、やっぱりどこか似てますよね。お互いの愛車、30年も違うのにこうして話せるなんて嬉しいです」とこちらも思わず興奮気味に話した。
彼女は嬉しそうに微笑んで、「そうでしょ?やっぱりCBRシリーズは特別だよね。F2は当時のアメリカのレースシーンで一躍注目を浴びたマシンで、AMAレースでも大活躍しててさ、形はツーリング向けだけど、勝つために作られたマシンって感じだったのよ。私、高校生の頃にF2に乗り始めたんだけど、当時はちょっと珍しい趣味だったわね」と、彼女が少し照れくさそうに笑う。
彼女がコーヒーを淹れる準備をしながら、しみじみと「バイクっていいよね。リア周りを徹底的に整備したり、ダンパーの調整に悩んだりするのも、その一体感を追求するからこそだよね。危険もあるけど、そこがまたいいっていうかさ」と語ってくれる言葉に、思わず自分も深く頷いた。
彼女が差し出してくれたコーヒーを一口飲むと、香ばしい香りが鼻腔をくすぐり、冷えた山間の空気の中でじんわりと心が温まる。
「また、いつでも寄ってね。こうやって、価値観が似た人と話せるなんて、めったにないことだからさ」と、彼女が優しく見送ってくれた。バイクにまたがり、軽く手を振ると、秋の冷たい風が心地よく頬を撫でる。
走り続けるのもいいが、こうして立ち止まって誰かと交わすひとときも、人生の大切なひとこまなのかもしれない。彼女との会話を思い返しながら、心がどこか温かく、満たされているのを感じた。走ることだけがすべてではないと、秋の空の下で少しだけ思った自分がいた。
しかし、オンシーズンには早朝の誰もいない時間に走るのが自分の習慣だ。彼女と会うために昼過ぎに来るのも悪くはないが、遅い時間にはどうしても車が増えて、思うようにワインディングを走れなくなる。
彼女との会話を惜しむ気持ちがありつつも、静かな山道を自由に駆け抜けるのはやはり格別だ。誰もいないワインディングを自分だけのペースで走りたい、でもまた彼女の笑顔に会いたい──その相反する思いが胸に広がり、なんとも言えない複雑な気持ちが残った。
自分は一体どちらを優先するのだろうか。ひとりのライダーとしての「走り」と、会話を交わしたい「誰か」を想う気持ち。その間で揺れる心が、秋の冷たい風に静かに吹かれていた。