CBR600RR’07一覧

良く曲がるCBR600RR’07

 そういえば雑誌を読むと良く曲がるとインプレが記載してある、このCBR600RR’07モデル。確かにそんな気がしてきた。最初は普通な感じで、たいして曲がるって感じはしなかったんだけど、毎日の腹筋が良かったのか、ニーグリップがしっかりとできるようになってからというもの、良く曲がるって意味の一つが良く分かってきた。


 自分の体を支えられるようになってからわかったんだけれど、視線を的確に移動してあげて、体をインに軽くいれると、このバイクは寝かさないでも曲がってる感じがする。ジムカーナ的なライディングで低速での左折なんかはリアを機軸にパタって寝かして向きを変えて曲がろうとアクションを起こしちゃうんだけど、思ったより寝かさないでもフロントがちゃんと進みたい方向にトレースできるみたい。結果、寝かさないでも意図したラインにマシンがいてくれているみたい。いい感じです。

 そして、このCBR600RR’07は、不自然なマルチエンジン特有のエンジンの重みが無いんですねぇ。一昔前は、いくら最新のレプリカであろうとSSってカテゴリーであろうと、4気筒ついているエンジンは重かった。いくら軽かろうと4発のエンジンを積んでいるマシンなので、2stに比べてエンジンを中心にして、極端にいうとエンジンを一生懸命運んで走っている感じがあった。でも、このCBR600RR’07はそんなことはない感じがします。高い重心からくるものか?はたまた総重量にして30kg軽いことからくるものなのか?これはスラロームに俄然期待ができますね。2stから乗り換えて、あのスラロームをするときに感じる4stのエンジンの重いって感じが軽減されているに違いない。実にコースデビューが楽しみである。


足るを知るRidingとは

こないだ「足るを知る」という言葉をTV番組で聞き感動を覚える。Webで調べると正式には「吾唯足知(われただたるをしる)」という言葉で「足るを知る者は貧しいといえども心は富んでいる、足るを知らぬ者は富めりといえども心は貧しい」という意味を表す言葉らしい。他の偉い人の言葉を借りると「まことの豊かさは物資の潤沢さからのものではなく、心の豊かさからのものである」という解釈にも取れる言葉である。


 自分はブログのテーマ「No Race No Life(レースのない人生なんて…。)」とあるように今まではレースで楽しむことが生活の中心で、速く走る為には妥協なく考え付く限りのことは全て具現化して勝利を掴むというようなことをしてきた。20代から30代の給料は全てほとんど注ぎ込んで学んだ勝利のための方法論。満足の代償は散財の歴史となった。もちろん散財してもタイトルもトロフィーもゲットして満足を得られたのだから悔いはない。

 しかし満足したはずなのに、悔いがないはずなのに、その結果勝ち得たシリーズチャンピオンのトロフィーは終止符とはならず、今回もまた懲りずにアクセルを開けたいと思う自分もいる。懲りない自分。結局はどんなに結果が良かろうとも勝っても飽くなき追求心はやめられないし止らないのである。走り続けることでしか充実を味わえない自分がいるらしい。

 そこで自分は思ったシリーズチャンピオンをとることの満足感や楽しさは否定しないけれど、本当は自分が決めた範疇で走って満足を得ることができるのではないかと。まさに「吾唯足知」という走り方があるのではないかと思った。まことの豊かさはハイグリップタイヤでもなく最高のサスペンションでもなく、物資の潤沢さからのものではなくて、レースを走る心の豊かさから追求できるものではないのかと。

 若かりし頃に、ノーマル車両でジムカーナをする人を見て、全力で生活を投じてマシンをセットアップしている人に対して失礼な感じがして嫌いだったことがある。でも今思えば、スプロケットさえ変えていないのに明らかにきちんとメンテナンスとセットアップしている姿勢が垣間見えるすばらしいノーマルマシンで戦う人もいたし、あれはあれで意味のあることだったのかもと思う今日この頃。

 そして自分の目標はノーマルマシンにこだわることはないけれど、ある意味勝てるはずのパーツやセットアップを知っていてもCBR600RR’07そのままの姿でどれだけ扱いこなせるのか?自分のテクニックの限界に挑戦することにある。足るを知る走りとはなんぞや?もう一度自問自答するために走ってみたいと思う。きっと何か新しい満足感・充実感が得られるハズである。